常懐悲感1 「苔の衣」

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  散歩が趣味で、その日は休日だったのでさらに足をのばし、

  埼玉の近くまで歩いた。

  この界隈では有名な寺があり、寄ってみることにする。

  大仏で知られているのだが、私の目を引いたのは、

  参拝者が購入しておいていくのであろう小さな仏だった。

  実際には仏ではなく、菩薩、地蔵菩薩であろうか。

  買った人がお供えしていくのだろうが、

  その中に緑の苔の衣を

  まとった像がある。

  いや、そもそも苔の衣を着せたのではなく、

  亡くなった人への供養のために

  着せておいた布が古くなり、

  さらにそこに苔が生えた状態になったと見える。

    亡くなったのはお子さんであろうか。

  苔の衣。

  後で辞書を引いてみると、

  苔の衣、という言葉じたいは僧衣を指すものであるらしい。

  そう言えば、僧正遍照の歌にもあったはずだ。

  苔の衣に変じたとあれば、

  僧の衣を身にまとい、

  お子さんは成仏されたのであろうか。

  また、苔のむすまで供えておかれたということは、

  その永い年月を物語る。

  御両親の悲しみは減じはしないだろうが、

  それでも、年月がいくらかは

  和らげてくれたのではなかろうかとは思われる。

  私は納得したような気分になり、

  自分の虚仮の衣、

  粗末な肉体をひきずって

  寺を出た。

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常懐悲感2 「六文銭」 

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 別な日に再び寺を訪れた。

 今度は五円玉を紐でくくりつけた地蔵を見た。

 三途の川の渡し賃を親が持たせたのだろう。

 川のほとりで子供がとまどっては不憫と持たせたものと見えた。

 親に先立った子は、賽の河原で石を積み、それを鬼が意地悪をする。

 そこに地蔵菩薩が現れ、

  子供たちを救ってくれるという伝説を聞いたことがあるが、

 地蔵菩薩に渡し賃を託したとあれば、最も確実であろう。

 本当は渡し賃はいくらだったかと考える。

 真田幸村の旗印だったとやっと思い出し、六文銭と気づく。

 「荒川漂流」でも書いたが、

 庶民の命の召集が一銭五厘、

  高杉晋作の言う浮世の値が三銭、

 そして、三途の川の渡し賃が六文銭。

 六文銭も五円も、いつの世でも、

 子を失った親の気持ちに変わりはあるまい。

  

 

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常懐悲感3 「おしゃぶり」

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 同じ親なのか、別な親なのか。

 親の子への思いは尽きないものなのだろう。

 成人した子を亡くしても親は何年も悔やむであろう。

 戦争の時の親たちの嘆きを見ればわかることだ。

 まして、いとけなき幼児とあらば、

 その悲しみの深さはいかなるものぞ。

 人はいずれ死ぬものとわかっていても、

 嘆きはおさまりはしない。

 一休さんの逸話に

 親が死に、次に子供が死に、そしてその次に孫が死ぬ、

  これがめでたいという話があったと思うが、

 その順序で死んだって悲しいというのに、

 順番が乱れれば、さらにいっそう悲しみはつのる。

 げに生きることは苦である。

 生老病死に愛別離苦。

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常懐悲感4 「粉ミルク」

Name

 場違いの場所にミルクの缶を見つけた。

 これもまた、子を亡くした親によるものか。

 ミルクの缶を置く御両親の姿を考えるとせつない。

 神も仏もないのではないかと

 虚無的な方向へと心が流れていく。

 もっとも、御両親の心、

 子を想う御両親の心は

 神仏に等しい。

 とあれば、神仏の授けたものか。

 だとすれば、

 心はまた方向を転じる。

 神あるいは仏、名称はよろしい。

 輪廻論やヨブ記のような理屈づけもよろしい。

 また、それらを読むことによって、

 心が慰められるのならそれもよろしい。

 悲感が心に灯をともす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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常懐悲感5 「ひなまつり」

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 ひなまつりは

 子の健やかな成長を願うものであろう。

 しかし、その子供が不在のときは?

 人は結局死ぬるものである。

 それなのに、

 何故人は子供を産むのか。

 本能?

 岸田秀氏の説のごとく、

 私も人間の本能を疑う。

 家の存続、家系の存続といった擬似本能によって、

 人は生まれ続けるのか。

 そのシステムも壊れつつある。

 ともあれ、人は生まれ、また死ぬ。

 つかのまの生を祝い、ひなをまつる。

 子は不在なれど、そのつかのまの生を祝う。

 そのつかのまの生は過去なれど、

 祝う気持ちに変わりなし。

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 写真はサムネイルです。クリックすると、見やすくなると思います。

 岸田秀氏については、

 ものぐさ精神分析続 ものぐさ精神分析 等を参照。

  

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常懐悲感6 「夏」

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 夏になると、

 遊歩道を歩きながら

 鳴き声をたよりに

 蝉の数を数える遊びを

 ここ数年続けている。

 一日目は片手で足りる。

 前の年に習得したはずの

 蝉の探し方を忘れている。

 二日目、三日目と

 少しずつ数は増えていく。

 意外と幹の下の方、

 手が届くところにいたりするものだ。

 最盛期となり、二十、三十と増えていく。

 だいたい五十、六十ぐらいで、

 こちらが飽いてくるのか、

 蝉がいなくなるのか、ゲームは仕舞いとなる。

 ごく短い間だが、

 鳴く声も微妙に変わっていく。

 蝉は盛んに鳴くが、

 彼らの死も見えてくる。

 そして、

 彼らの声が消えると

 夏が終わる。

  つかのまの夏、

 つかのまの人生。

 

 

 

 

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常懐悲感7 「秋」

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 秋は実りの季節。

 しかし、

 最盛期が過ぎれば

 衰えの季節。

 人の人生もまた同じ。

 枯葉が幹に別れを告げる。

 されど、地面で朽ちる前に

 しばしの間

 仏の頭巾に包まれて

 一休み。

 

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常懐悲感8 「冬」

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 ついに冬がきた。

 地蔵様も頭に

 雪をかぶり

 お寒いであろう。

 地表では

 虫も

 いなくなり

 静寂の時。

 

 

 

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常懐悲感9 「春」

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 そして春が来た。

 しかし、春愁という言葉そのままに

 心が晴れることはない。

 桜を背景に

 同じ桜色の数珠に

 まかれた地蔵を見つける。

 

 うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しも独りし思えば 

                            家持

 

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常懐悲感10「菊」

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 桜とならぶ日本の花は

 菊であろうか。

  菊の香や奈良には古き仏たち          

                  芭蕉

 

 桜が咲けばやや心も浮かれ、菊が咲けばしばし憂いを忘れる。

 しかし、すぐまた憂いにおちいる。

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥

                  芭蕉

 

  そう、この句のように

  世俗の憂いから

  閑古鳥よ

  お前のさびしい鳴き声で

  私を閑寂の境へと導いておくれ。

  逃避ではなく

  憂いを脱けて

  入寂へと。

  

  

 

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常懐悲感11「寂しさなくば」

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 とふ人も 思ひ絶えたる 山里の 

                               さびしさなくば 住み憂からまし

                               西行

                                                                                                                                 

 寂しさ、閑寂の境は何よりもありがたいものだ。

 それがあるから

 私も生きていける。

 厭離穢土、欣求浄土とまでは言わぬが

 今の日本の社会のなんとくだらぬことよ。

 いや、社会というのは

 いつの世であろうと

 どこの国であろうと

 くだらぬものだ。

 それは

 幼いころから感じていた。

 ただ

 幼いときは

 自分が愚かだから

 そんなことを感じるのだと

 思っていた。

 世の人は

 賢く

 私は愚か。

 だから

 世の中の

 すばらしさが

 わからぬのだと思っていた。

 しかし

 見るがよい。

 そして聴くがよい。

 賢人たちの見解を。

 仏陀は

 世を離れ

 キリストは

 「私はこの世のものではない」

 と語る。

 私もこの世のものではない。

 ただ「寂しさ」を友とし

 「悲感」を杖として

 客としての

 この世を生きていく。

 

 

 

 

 

 

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常懐悲感12「メメント・モリ」

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 メテオラの修道士たちの

 写真である。

 復活を祈って

 棚に祭られているのだろう。

 メメント・モリ

 つまり

 死を忘れるな

 という言葉がある。

 仏教的の死生観とは異なるが

 世俗におぼれがちな人間をいましめる

 教えとしては

 常懐悲感と

 共通したものがあるように感じられる。

 うつろいやすい

 この世に

 ひとは

 とらわれ

 しばられて

 しまうものだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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常懐悲感13「悲劇」

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 エピダウロスの劇場である。

 ギリシア悲劇は

 それを観る者に

 人生を

 真摯に

 考えさせる。

  法華経『如来寿量品』の

 「常懐悲感」も

 人生を真摯に考えさせるということなのではないか。

 毒物に苦しみ正常な意識を失った子たちに

 方便で

 父の死を伝える。

 父の死を知った子たちは

 その悲感によって理性をとりもどし

 薬をのんで助けられる。

 方便を用い

 子たちを助けた父は

 言うまでもなく

 仏である。

 子たちは

 この世にとらわれ

 正常な意識をうしなっている

 われわれであろう。

 悲劇

 悲感が

 われわれに

 一瞬

 正常な

 意識を

 もたらしてくれる。

  

 

 

 

 

 

 

 

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常懐悲感14「墓碑1」

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 アテネの国立考古博物館に

 墓碑を集めた部屋がある。

 二千年以上前の

 家族の悲しみが

 つまった部屋である。

 子を失う悲しみ

 親を失う悲しみ 

 兄弟姉妹を失う悲しみ

 二千年の時を

 隔てていても

 変わりはない。

 

 

 

 

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常懐悲感15「墓碑2」

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 アテネの国立考古博物館では

 不思議な経験をした。

 墓碑を集めた部屋で

 ひとつひとつを観ていると

 いつのまにか

 私ひとりになっていた。

 ほかの観光客は

 他の部屋へ行ってしまい

 博物館員は椅子の上で

 眠っている。

 ひとりで墓碑を観ていると

 地の底からのような

 腹に響くような

 音が聞こえてくる。

 おそらく

 他の部屋の訪問客の声が

 いくつもの部屋を通って

 海のざわめきのように

 地の轟きのように

 聞こえてきたものと思われるが

 いろいろな部屋からの

 集合された音のためか

 人の声とは聞こえず

 動物の鳴き声とも聞こえず

 この世の声とは

 思えない。

 その音に包まれて

 墓碑を観ていると

 異次元の

 死者たちの

 声を聞いているかのようである。

 しかし

 恐怖感はなく

 ある種の共感を感じていた。

 われわれは

 等しく

 死す者

 つまり

 モータルである。

 死者は

 かつての生者であり

 生者は

 いずれ

 死者となる。

 そこに

 何の違いがあるのか。

 ただ

 時間の隔てが

 あるだけである。

 

 

 

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常懐悲感16「墓碑3」

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 家族を失う悲しみは

 古今東西

 変わりはない。

 家族を失った悲しみを

 歌った芸術作品も多い。

                                                                                                                                 

うまれしもかへらぬものを我がやどに

                        小松のあるを見るがかなしさ

                        紀貫之

                                                                                                                                                                  

                                                                                                                                                         

      また来ん春……

 また来ん春と人は云ふ

 しかし私は辛いのだ

 春が来たつて何になる

 あの子が返つて来るぢやない

                                                                                                      

 おもへば今年の五月には

 おまへを抱いて動物園

  象を見せても猫(にやあ)といひ

 鳥を見せても猫(にやあ)だった

                                                                                      

 最後に見せた鹿だけは

 角によつぽど惹かれてか

 何とも云わず 眺めてた

                                                                                       

  ほんにおまへもあの時は

 此の世の光のただ中に

 立つて眺めてゐたつけが……

                         中原中也                                                                                           

                                         

    

  母親に抱かれた幼子をよく見る。

 たしかに子供たちは光である。

 ただ、影もその後についてくる。

 陽あるところには

 陰もかならず存在する。

 

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常懐悲感17「墓碑4」

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 常懐悲感と言っても

 一日じゅう

 あるいは

 一年じゅう

 暗い顔をしていればよい

 ということではあるまい。

 楽しい時は楽しみ

 うれしいときは笑う。

 ただ

 この世には

 四苦八苦がある。

 特に

 痛烈なのが

 愛別離苦であろう。

 愛する者といずれは離れなければいけない。

 それはわかっているが

 突然の訪れがある。              

                                                       

 紀野一義氏の

 こんな文章がある。

                                                        

  だれにだって悲しみというものはある。しかし人は、悲感に

とらわれると、なんとかして それを忘れようとしたり、どこかに

逃げ出そうとする。だからその悲しみをすぐ他人に話す。話す

ことによって悲しみをまぎらそうとするのだ。こういうものを

愚痴という。「愚痴をこぼす」という不快な印象のことばが、 

その行為のいやらしさをうまく表現している。

  愚痴をこぼしたって、事態はけっしてよくならない。かえって

悪くなる。

  悲感を自分の胸のなかにいだいていなさい。その悲感が

あなたの心を浄化する。あなたの心をクリアーにする。

  悲感は、冬のすみきった空気のようである。痛いほどに

するどいが、そのするどさが心地よく心のなかをほぐして

くれる。そして、心をさめさせてくれる。

         講談社現代新書 『仏教のキイ・ワード』

              

 

 

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常懐悲感18「伝道の書」

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 「伝道の書」(「コレヘトの言葉」)に

 「弔いの家に行くのは

 酒宴の家に行くのにまさる。

 そこには人皆の終りがある。

 命あるものよ、心せよ。

 悩みは笑いにまさる」

 とある。

 手もとにあるのは

 1987年の新共同訳だが

 子供のころ読んだものは

 「悲しみの家にいくのは」

 「悲しみは笑いにまさる」

 となっていたと思う。

 「すべては塵から成った。

 すべては塵に返る。」

 「見よ、どれも空しく

 風を追うようなことであった」

 なども好きな言葉だ。

 (私の年代だと、

  カンザスの  

  Dust in the Wind

  つい思い出してしまう。)

  写真は

  デルフィの遺跡の近くを

  散歩中に。

  ともしびが

  はかなく揺れて

  切なげで

  人の命を感じさせた。

  (これも

  ジャクソン・ブラウンの

  ジャクソン・ブラウン・ファースト 中の

  「アダムに捧げる歌」を

  思い出させる。)

     

  

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常懐悲感19「願はくは」

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前にも述べたように

「常懐悲感」と言っても

毎日、暗い顔をしていなさい

ということではなかろう。

我々は

つい世の中のことにとらわれ

浮かれて

何が大事かを忘れてしまう。

「悲感」によって

何が大事かを

再認識させていただく

とでも解釈しようか。

あるいは

悲しみの多い人への慰め

もしくは励ましともとれる。

悲しみはそんなに悪いものではない

心を澄まし

悟りへと導いてくれるものだから

という励ましとも解釈できる。

また

さらに言えば

「悲感」を懐くとは

無常を感じることでもあろう。

「正法眼蔵随聞記」の

「志の到らざることは無常を思わざるに依るなり」

「またこの志しをおこさばただ世間の無常を思ふべきなり」

などを思い出す。

無常を観ずることが

正法への道であり

「悲感」を懐くことは

またその無常へと

導かれる道と

信ずる。

ともかくも

無常を観じた上は

 願はくは花の下にて春死なむ

                    そのきさらぎの望月のころ

                      西行

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